スキヤキの話 その4 - 食べ物・料理・味の旅 - Dengon Net

スキヤキの話 その4

2006-09-07

スキヤキの語源の話に続き、今月は関東・関西での調理法の違いとその発展について話してみよう。

よく、関東・関西での調理法が異なるといわれる。関東は、割り下(砂糖、醤油、味醂などを煮立てた下地と水で味を整えたもの)で煮込むのが主流。

関西では、先に肉を焼いてから砂糖(主にザラメ)、醤油を直接入れ味付け、その後に野菜を入れて煮る方法。割り下とは元来「割り下地」の意味で、下地を水で割ることから名付けられた。

煮物や鍋物の材料を下煮するときの汁の総称である。それ故、スキヤキのタレばかりではなく、泥鰌や穴子を下煮する汁も割り下と呼ぶ。これを使うとどうしても、焼くより煮る感じが強まってしまう。

なぜ、調理法に違いが生まれたのかを説明する前に、いつ頃から民衆がスキヤキを好んで食べ始めたのかについて述べてみよう。江戸時代までの日本は、仏教の「殺生戒」による肉食のタブーがあったので、庶民一般に肉食の習慣が広まったのは明治以降であろう。

明治の戯曲者、仮名垣魯迅の代表作「安愚楽鍋(あぐらなべ)」には「士農工商老若男女愚賢貧富おしなべて牛鍋食わぬは開化不進奴(ひらけぬやつ)」との箇所がある。このように当時牛鍋は大流行した。

この「安愚楽鍋」が発表されたのが明治4年(1871年)で、この年には明治天皇もその料理人に命じて、牛肉を食したとの記録もある。明治11年(1878年)出版の「牛鍋屋番付」なるものには、関東だけでもおよそ300件もの名が連なっている。

しかし、なぜ「牛鍋」であって「スキヤキ」ではないのか? 当時の料理法は、木炭コンロに鉄の平鍋で、割り下を注いで角切りか平切りの牛肉を煮るといった所謂「スキヤキ」なのだが、その名はトンと出てこない。

東西双方の老舗に当ってみると、創業百有余年を誇る東京浅草の「米久」では、いまでも「牛鍋」の名で通している。

これに対し大阪心斎橋の「北むら」は、明治14年(1881年)の創業から「すき焼き」の名を使っている。前述の如くに、関西風は焼いてから味付けするので、鍋ではないというのだ。

そこで、もう少し東西の発展の違いを掘り下げてみよう。関東で一番古いスキヤキ屋、横浜の「太田縄のれん」は創業が明治元年(1868年)。

創業以来、「牛鍋」の名も調理法も変わっていない。鍋の中心には何と味噌の塊、その上に白ネギ、そして味噌の周りには角切りの牛肉が円を描いて置かれている。別名を「ぶつ切り牛鍋」と称され、この味噌を溶かしながら煮込んで食べるのである。

明治期の料理書「素人料理、年中惣菜の仕方」などに記された牛鍋の調理法には、「先ず、味噌を投じ」とか「白味噌と砂糖と酒を入れて」などの記述がある。こうしてみると、最初のころの牛鍋は味噌味だったと想像できる。

味噌味の鍋というと「猪鍋」が思い浮かぶ。猪は肉食タブーが色濃く残っていた江戸時代にも、「ぼたん」「山鯨」とかの隠語で呼ばれ、結構食べられていた。

当時、そういう獣肉を扱っていた店を「ももんじゃ」と呼び、他にも熊や鹿や狸などの肉が売られていた。東京両国には、屋号を「ももんじゃ」という「しし鍋」の老舗がある。ここのしし鍋と横浜の牛鍋とは見かけも味も大変近い。

ある食物史研究家によると、「昔の人があまり肉食をしなかったのは、もちろん仏教の影響もあるが、血抜きの技術が発展していなかったせいでもある。当時の肉は血のせいで、かなり臭かった筈。味噌で煮て血の臭みを消す必要があった。猪特有のクセがあるから、味噌にネギや大根を入れてその臭みを抑えた」との話しである。

そうしてみると、関東のスキヤキのルーツは、「牛鍋」以前の「猪鍋」に違いない。・・・が、どうして味噌が醤油味になっていったのか? 同氏曰く、「やがて血抜きの技術が向上し、日本人が好む醤油味でも肉を無理なく食べられるようになったことで、味噌から醤油味にと移行したのだろう」と。

ちなみに、当時「牛鍋屋」だった関東の店が「すき焼き屋」と呼び名が変わったのは、大正時代末期以降。今も「牛鍋」で通している店は、ほとんどそれ以前からの老舗である。