前号では、関東風スキヤキのルーツが牛鍋であり、その源は猪鍋からと解明してみたが、いかがだったろうか。
今回は、関西風のルーツと、それらがいかに発展していったかということを話してみよう。
数号前に、スキヤキの語源は、3 の鋤(犂)焼が最有力ながら、1 剥き焼説、2 魚すきからの転化説もあり得ると書いた。私個人としては、これらが混ざり合い、御猟鍋+牛すき→すき焼きとなったと考えている。
関西のルーツの方が、関東より焼くことを重要視したものと思われる。 そして、東西ではかなり異なっていたものがいかにして混合(?)合体していったのか。
先月号でも述べたように、関東の「牛鍋屋」が「すき焼き屋」と改称されたのは大正末期以降だが、その速度は一斉といっていいほどの早さで浸透した。
その起因は、大正12年の関東大震災だといわれている。政治・経済・社会に様々な混乱を引き起こした大地震は、関東の「牛鍋屋」にも壊滅的な打撃を与えた。その間隙を縫って震災後、関西の「すき焼き屋」が大挙して関東に進出して来た。
この頃から関東でも「すき焼き」という呼び名や関西風調理法が広まっていったのだ。関東で現在のように、白滝、春菊、白菜、豆腐、麩などが具に加わり出したのもこの頃からで、それ以前の牛鍋では白い葱を五分(約1.5cm)の長さに切り、一人前4本だけのっていた。
「客が『おーい葱のお替りをくれ』というと、五分の代わりに一寸(約3cm)でも来るのかと思いきや、一寸も(ちっとも)出てこない」という小噺もあったほどだ。
こんにゃく・白滝は良アルカリ性食品で、体内をきれいにしてくれる健康食品として江戸期より広まった。江戸初期には、大流行したコレラに特効という噂で大もてだった。しかし、アルカリ食品は肉の色を変えないので、肉とこんにゃくや白滝を一緒に入れないほうがよい。時間と鍋の中の場所をずらして入れることを勧める。
また、溶き卵を付けて食べるスタイルが生まれたのも関西風が進出した以降である。ただし、当時鶏卵はかなり高価だったので、高級料理屋かごく一部の家庭でしか使われなかった。中国料理の火鍋(スチームボード)を食べるとき、溶き卵で食べている中国人を多く見かけるが、どちらが先かは定かでない。
大正末期以降、東西のスキヤキは調理法の違いもほとんどなくなり、関東の家庭でも醤油、味醂、砂糖、酒、などを随時適宜に足すやり方が増えて来たし、東西を問わず多くの料理店では、その店の味を一定に保つために割り下を使っている。
季節は夏に向かって一直線。でも、ときには家族、友人、恋人と、滋養豊富なオージービーフを使って、スキヤキと味わい深いオージーワインで一杯なんてどうだろうか?
