天ぷらの話 その1 - 食べ物・料理・味の旅 - Dengon Net

天ぷらの話 その1

2007-02-02

今回からは、関東・関西でその味が微妙に異なる料理の第2弾として「天ぷらの話」をしていこう。

「天ぷら」の名の由来については諸説ある。その一つに、江戸の戯作者(げさくしゃ)“山東京伝”の弟・京山が述した『蜘蛛の糸巻』という随筆集には、ある日、上方(関西)方面から恋仲の芸者と駆け落ちして来た大阪の素封家(そほうか:大金持ちの意味)の二男坊である利助という若者が、「上方で流行っている魚に小麦粉をつけて揚げるつけ揚げ屋を開業したい。

江戸には野菜の揚げ物しかないのでどうだろうか、しかるべき名前を付けて欲しい」と頼みに来た。そこで京伝は、天竺浪人がふらりと江戸に来て始めるのだから「天ふら」→「天麩羅」と書き与えた、と記されている。「天」は揚げる、「麩」は小麦粉、「羅」は薄衣を意味すると、こじつけたところはいかにも戯作者京伝らしいところである。

別説では、野菜揚げばかりしていてはつまらないと、魚の揚げ物も始めた精進揚げ屋が、書家に看板を依頼した。書家は熟考した末に、万葉集の変体仮名を漢字に直してその下に「阿希」をつけ加えて「天麩羅阿希(あぶらあげ)」としたためたところから「天麩羅」になったともいう。

なお、俗説ではあるが徳川家康は鯛の天麩羅にあたって死亡したことになっている。また、近松門左衛門の浄瑠璃にも「天麩羅」という言葉があり、油を利用した魚の料理法は山東京伝(天明の頃、江戸中期)より以前からあったことがわかる。

もっとも信憑性のある説としては、ポルトガル語の「テンペロ」(調理の意)。スペイン語の「テンプロ」、英語の「テンプル」(共に寺院の意)が訛って「テンプラ」となったという。

16世紀中頃、ポルトガル船がしけで鹿児島県の種子島に漂着し、それを機にヨーロッパとの交易が盛んになり、それまでの日本人が接したことのなかった西洋文化―特に、キリスト教の宗教思想、鉄砲を始めとする火薬を使用した武器、それと衣食住にわたる西洋の生活習慣―が入って来た。

以前にも書いたが、そもそも日本本来の食事は水の料理といわれ、調理に油はほとんど使われなかった。しかも、東洋の寺社料理は大体が精進物だったのに、キリスト教宣教師は油を用いて獣肉や魚肉を調理する西洋料理を伝えた。

とくに大量の油で、食材に衣をつけて揚げる料理は一大センセーションであったことだろう。宣教師は寺院でこの料理をしたためたので、寺院料理「テンプロ料理」と称し、これから「天麩羅」と呼ぶようになったとされる。

名の由来には諸説あるが、全国的に「天麩羅」の名を広めたのは山東京伝に違いない。「麩」の字が「婦・夫・付」、「羅」が「良・等」と書かれることもあるが、いずれものちの当て字である。